昭和43年9月13日夜の御理解
唯今より昭和43年9月13日夜の御理解を頂きます。ここから、御本部参拝を致しますのはおそらくただただ、バスを利用しておかげを頂くようになると思います。御本部参拝にいろいろ手続きや人数の多い少ないで何時も問題になっておったのが、バスで参りますと値段もうんと安くなりますし、もうここだけでの行動がとられるのですから、実に楽な事になるだろうと思うんです。それも今日の13日会に皆さん丁度御本部参拝が13日になっておった。13日では記念祭を使えるのにもう12日13、14、15、16、17日と明くる日の片づけまで6日間も一週間もあまりも打っ通しにでてこにゃあならん。皆さんがというようなことでいろいろ話しの結果北野の先生が御用しておられますから、電話をかけたんです。ところが、留守だったからね、教務所の方へ直接電話をかけた。おかげで非常にスム-ズにそれがただ北野に電話かけたら良かろうと言うことであったので、私はそこんところを心配しよりましたのですけれど、今若先生が帰って参りましてから、大変心よう控えでの事まで心配してくださったと言うことを聞かせてもらって、こちらが実意丁寧に礼を尽くして行かなければ、いけないことをですね。それを私は感じましたか。それでも、北野の先生が電話をかけたときにおられたらそれがちょっと問題になったかもしれませんですね。それはいまさら、そんなことを言うてと大変お世話の事ですから、いわれたでしょうが、そうすれば、教務所に直接言うわけにはいけなかったのですがお留守だったことがおかげ教務所としてもすぐ手続きの段取りをこまごましゅう教えて頂いてその手続きが出けて若先生が一人言ってきたんです。北野の方で大変快う承諾してくださったと。これが一つの例になりますから、これからはもうやはり何時でもバス一台の事ですから、そうすると5人、6人多かっても少なかってもそれが問題じゃあないということになりまして非常にスムーズにこれからは行くだろうと思うんです。そういうことが一つの時期と言うものがね、たとえば、今度の13日に今日の13日会の日にたとえば、御本部参拝が10日であるとか、8日であるとかいうふうに出会ったら、こんなもんではいかなかったです。ところが13日になったおかげでそういうふうになってね。しかもそのときに今話す様に次から次とスム-ズに行くように段取りが出けておる。そのときはこれまではバスで行ったほうがよかったけれどもやはり、皆とご一緒させて頂いとったんですけれども、そういうやはり時期とか、機会とか神様の*いそういうふうに成就して来ることが必ずあるとですよね。スム-ズにスム-ズを欠く時はやはり時期じゃあないときなんですから、こちらの考え一つでやあやあ言うことはいらないと言うことを改めて感じました。今日13日会の御理解に13日会というのは神様の願いが成就することのために奉仕するグル-プだというわけなんですね。天地の親神様の願いが成就するためにその奉仕をするグル-プが合楽の13日会だと。ですから、そこに一人ちょっと実意を欠くことになったりすると、そこから、おかげを頂けんようになる。私はそれを今朝方佐田さんがお夢を頂かれてから、私と大広前の金光様とが料亭か割烹か大変なすばらしいところでお食事に行くと言うお知らせを頂かれた。それを取り巻きのいわば菊栄会の方達がお供をしておるけれども、お供の人達はお食事をなさるのではないお食事をなさるのは親先生と金光様だといったような事を頂いとった。いわゆる金光様がままになられることをそのまま天地の親神様ままになられること。私がままになることは、もう必ず、それは金光様がままになられることと同じこと、そういう一貫したものです。親先生がおかげを受けられると親先生が思いのままおかげを受けられるということは、そのまま金光大神の願いでもあり、しかもそれは天地の親神様の願いでもあると言うことになるとこれは13日会だけのことではない。もう何時もがです。そこのところにお互い焦点をおいての信心、いわゆる私共が天地の親神様がままになられるための御用にあたらせて頂いておる。いわゆるグル-プだと団体だというふうに私はそういう自負をもって今後の信心を進めて行かなければならない。小さい自分の願いと言ったような事のために成就だけではいけない。そういう神様の願いとてもやはり時節を持たなければならない。時期があるです。それも実にタイミングようすばらしいこと。ここの御本部参拝の日が、13日会に決まっておったということもそれが今日の13日会に取り上げると言うことも久留米の先生がお留守であったということもそれから、小倉の方でももうとにかくこちらに合楽に電話をかけてくださらなければならぬ用事でかけようと思いよったと言うようなすばらしいタイミングの時におかげを頂いておったということも何かかんかまでそういう神様が願いが成就するときにはそういうようなもんですね。ですから、それとてもなら時節がある、時期がある、本当に信心辛抱が出けるということを考えますですね。どうぞ。